・教育問題の解決のために

子どもたちは社会の宝と言いますが、その子どもたちを育てる教育分野は、現在、様々な問題に直面しています。これまで行われてきた知識詰め込み型の受け身の教育によって、主体的に問題に取り組み、自分で物事を考え、問題解決のために行動する能力を十分に培えなかったり、教育格差によって、本来望まれるように、十分なポテンシャルを持った子どもが社会で活躍する機会が与えられず、将来的にその子どもの世代へと貧困が連鎖したり。私たちの暮らす社会において、次世代を担う子どもたちへの教育の重要性が認識され、対症療法的にも、大学入試制度の見直しなどによって、そうした問題の解決を図ろうとされ始めましたが、根本的な解決には至っていないのが現状です。対症療法的に教育改革を進めても、また新たな歪みが生じるのではないでしょうか。

こうした教育問題を解決するためには、新たな教育システムの確立が求められるのです。新たな教育システムと言っても、既存の学校教育を根本的に変えるといったことではありません。偏重した競争意識に基づく教育を改めるということです。偏重した競争意識に基づく教育とは、資本主義の市場原理に基づく教育を意味します。

・市場原理に基づく教育システムの弊害

確かに、時には競争意識も重要です。競争意識があるから、向上心をもって、目標の達成を目指し、各々の能力を磨いていくことができるのも事実です。しかし、それも過度に偏重すると、弊害をもたらしかねません。例えば、教育格差による貧困の連鎖がそうです。経済的に豊かな家庭の子どもは、それだけ教育にお金を遣うことができるので、より高水準の教育を受けることができます。一方で、経済的に恵まれない家庭の子どもたちは、そうはいきません。どれほどポテンシャルを秘めていようが、教育環境が相対的に劣っているため、能力を伸ばす機会が与えられにくく、いわゆる良い大学に入り、経済的に恵まれた職に就くということが難しく、その結果、貧困から抜け出せないという悪循環に陥るのです。せっかくの優れた潜在能力も発揮できなければ意味がありません。そうした子どもの教育ないし将来的な社会活動における機会損失は、社会的損失に繋がるのです。

それだけではありません。市場原理に基づく教育システムにも問題はあります。塾や予備校において、教育機会が増えるのは喜ばしいことかもしれませんが、教育サービスを商品化することに弊害がないとは言い切れません。お金を貰ってサービスを提供する営利活動ですから、消費者からすると、明確な形でのリターンが求められることになります。それが目に見えてわかりやすい偏差値アップや志望校への合格実績でしょう。もちろん、学力という観点からすれば、こうした目に見える成果も重要であることは間違いありません。しかし、これらにあまりに偏重し過ぎると、どこかで歪みが生じる可能性があります。

そもそも高校や大学は、何のために行くのでしょう。勉強し、自己を高めることはもちろん、社会において活躍するために研鑽を積んで、将来に備えるという意味もあるのではないでしょうか。つまり、望ましい人生を送るための手段ではないか、ということです。ところが、良い大学に入るためだけの教育に特化してしまうと、この手段としての教育が目的化される可能性があります。本来、手段であるはずのものが目的化されるということは、倒錯以外のなにものでもありません。

・手段と目的の倒錯

この手段と目的の倒錯には、大別すると、2つの問題があるように思われます。1つ目が、目的化されるということで、その先のことが見えにくくなるということです。人生は受験や就職で終わるものではありません。それらは人生の通過点に過ぎず、むしろ、それがスタート地点であり、生きていく以上、その間に培われた思考力や知識を活かして人生を切り開いていくことになるはずです。しかし、偏差値を上げるためや、志望校に受かるために特化した教育は、将来を見えにくくしている気がします。大学に入ること自体が目的となっているので、入学してもやりたいことがわからず、自分探しの旅に出たり(このこと自体は悪いわけではないのですが)、燃え尽き症候群になって自堕落な学生生活を送ってしまう場合があるのです。マラソンでも、ゴール(目的地)を過ぎたら、走るのをやめますよね。それと同じことが起こりうるということです。

日本の大学生が、外国の学生に比べて、勉強する人が少ないというのは一昔前から言われてきたことですが、事実、日本の大学の多くは、遊んでいても卒業できてしまうというのが現状でしょう。「入るのが難しく、出るのが簡単」と言われるのも正鵠を射た表現と言えそうですね。これでは、せっかく大学に入学しても、宝の持ち腐れとなってしまいます。確かに、大学入学は1つの目標ではありますが、あくまで通過点に過ぎません。そのため、そこが最終目標であると誤認してはならないのです。

何より、大学入学を最終目標とする教育には、汎用性があまりありません。確かに、最適化された方法論によって教育を受ければ、当面の目標は達成しやすくなります。しかし、それは限られた分野でしか用いることのできない手段に過ぎないのです。志望する大学の入試傾向を分析し、最も効率の良い勉強によって、入学できたとしても、それは大学入学までの話。そこから先の人生で問題にぶつかった時、ブレイクスルーする力は培えません。

2つ目の問題が、教育を狭義的なものにしてしまいかねない、というものです。消費者は、目に見えて、わかりやすい成果を求めますから、偏差値アップや志望校合格に特化した、最適化されるが故に汎用性のあまりない教育サービスが提供されがちになります。しかし、教育とは偏差値を上げることや、志望校に合格することに限られるものではありません。

もちろん、そういったことも教育の範疇に含まれます。でも、生きる力を、つまり、主体性や思考力という人生を切り開いていく力を培ったり、時には、社会の一員としての人の道教わったり、教育とは多岐にわたるものなのです。にもかかわらず、市場原理に基づく過度に偏重した教育ばかりが意識に刷り込まれると、教育が狭義的なものになりかねません。本懐を見失った教育で、きちんとした人間性を育むことが、果たして可能でしょうか。

・新たな教育のシステム

市場原理に基づく教育に関する問題を解決するためには、新たな教育のシステムが求めれます。それが、社会全体で教育を支えるシステムなのです。

勉強や教育には、時間も労力もお金もかかるものです。しかし、そうした負担を個人に負わせてしまうと、前述したような歪みが生じてしまい、結果として、社会的損失に繋がり、結局は社会の構成員である私たちにそのしわ寄せが来るのです。

我々after  educationが目指すのは、社会全体で教育を支えるシステムです。そのため、教育を受ける個人に、またはその家庭に対価を求めるのではなく、企業や行政との協力、あるいは個人の善意によって運営費を賄うつもりです。社会全体の問題は、社会全体によって支えられ、解決されなければならないという理念に基づき、当法人は、教育における社会的問題の是正を目標に、教育の無償化事業を始めました。これにより、経済状況によらず、能力や上昇志向のある子どもたちが勉強でき、将来的に社会において活躍できるような人材を育成することで、社会貢献を目指します。